こんにちは。
いしざき遊太です。
一昨日ブログを更新した後に、友人と三浦マラソンのコースを試走してきました。
道を間違えたりした関係で結果的に30㎞近く走ったので、いまだに脚と腰がヤバいです…
険しい顔で走っていたら地元の方が「水飲んでいく?」などと声がけしてくださったりしてほっこりしました。
三浦霊園と剣崎の坂で心が折れかけることがわかりました。
出場される方、一緒に頑張りましょう!
さて、大学での学びにフォーカスした投稿も今回で最後になります。
前回の投稿で触れた浅野史郎先生の研究会において、もうひとつの素敵な出会いがありました。
当時も現在も横須賀市議会議員を務められている、藤野英明さん(以下、フジノさん)です。
私が大学2年生になったころ、研究会のゲストスピーカーとしてSFCにいらっしゃったフジノさん。
聞けば自分が住んでいる三浦市のお隣、横須賀市で市議会議員をしているとのこと。
当時、市議会議員という存在に抱いていた率直なイメージは、
日頃なにをしているのかよくわからない、若年層が少なく年配の方ばかり、住民というよりは利益団体の御用聞き、首長の単なる追認機関になり下がった存在、などなど
とにかくネガティブなものばかりでした。
(号泣議員として某市の市議による不祥事がメディアを埋め尽くしたのは、これより少し後の話です)
もちろん、大学での学びを通じて地方議会の重要性や可能性はわかってきた段階でしたが、具体的な活動が見えにくいこともあり、そのネガティブな感情が払拭されることはありませんでした。
そんな中で出会った、フジノさん。
とにかく上で述べたようなイメージとは全く正反対なのです。
まず茶髪にロン毛という出で立ち、当時30代(初当選は20代!)というご年齢に驚きます。
そして講義で述べられた政治家としての矜持や思い、本気度が伝わってくる日々の議員活動。
初選挙の時のキャッチフレーズはなんと、『おれを、こきつかえ!』というもの。
福祉への熱い思いや決意の強さには、度肝を抜かれました。
こう聞くとイケイケで自己主張の強い青年をご想像されるかもしれませんが、実際にお話しすると本当に物腰が柔らかく、謙虚さがにじみ出るようなお人柄なのです。
熱のこもった約90分の授業時間はあっという間に過ぎ去りました。
世の中には、こんなに凄い市議会議員さんがいるのか…(しかも隣町の横須賀市に!)
大きな衝撃とともに、勇気と希望をもらった気がしました。
※フジノさんのブログをあらためて読み返していたら、その時のものと思われる投稿がありました。
▼▼▼
https://www.hide-fujino.com/blog/2012/04/17/28561/
もしよかったら、上記リンクからフジノさんのプロフィールなどもご覧になってみてください。
興奮冷めやらぬ私は授業後、すぐにフジノさんに駆け寄って、謝意と感動を伝えました。
この出会いを契機として、その後もフジノさんとの交流が続いていくことになります。
当然ながらイデオロギーや実現したい部分が全く同じというわけではありませんが、大学での学びを通してぼんやりと浮かんでいた『政治家になるなら国ではなく地方で』という思いは、フジノさんとの出会いで確固たるものになったのでした。
地方で、そして地元で政治家となるということ、つまり三浦の首長である市長、もしくは市議会議員になるという一つの目標が確立したわけです。
この頃の私を知っている方であれば、私がその思いを実現するために色々と取り組んでいたことをご存じかと思います。
それからも大いに学び、大いに遊び、気付けばあっという間に大学3年生の中盤となっていました。
ここでようやく、将来の進路について現実的な判断を迫られることになります。
大学を卒業してすぐの私は、まだ22歳。
一方で、市長もしくは市議会議員に立候補できる被選挙権は25歳から与えられます。
もし最短で立候補するのであれば、大学卒業後からの数年間でどういったキャリアを歩むべきなのか、相当考えました。
(奨学金の返済も含め、当然お金も稼がなければなりません)
当時私の頭に浮かんでいた選択肢は、主に下記の4つでした。
- もう少し法律の勉強を深めて国家公務員試験を受け、官僚としての経験を積みながら地方自治を見据える
- 1と同様に地方公務員試験を受け、県庁もしくは三浦市役所で現場の行政官として働く
- 別の政治家の秘書やいわゆる“カバン持ち”として、政治家としての歩み方を学ぶ
- シンクタンクやコンサルといった民間企業で働きながら社会課題の解決に取り組み、同時にビジネススキルを身に着ける
1に関しては、たった数年で三浦に貢献できるようなキャリアが積めるのか不安がありました。
なにより試験を突破したとしても、総務省(旧自治省)で地方政策の領域に携わることができるという保証がどこにもありませんでした。
2に関しては、立候補のための下地を作るためには、現場にいるからこそある程度長い期間働く必要があると考えました。
3に関しては、ザ・王道な政治家への道のりですが、絶対に避けたいと思っていました。
今となっては政策運営と選挙の現場感が学べるメリットの大きさがわかりますが、当時は日本の現状をつくりだしたそのような“テンプレートの人たち”の一員になることが許せませんでした。
4に関しては、結構ありだと思っていました。しかし、退職する前提で入社することへの抵抗がより強い選択肢でもありました。
また1同様、入社できたとしても数年で自分が経験したいような公共的な政策に絡めるという確証が得られませんでした。
このように、政治家になるまでの選択肢は実に多種多様で、さらにこれといった正解があるわけではないことを痛感します。
この悩みを解決するために本当に色んな方に会って話を聞きましたし、書籍も読み込みました。
でも、なかなかハッキリとした決め手にたどり着けませんでした。
そんな悶々とした悩みを抱えながら、気付けばあっという間に大学3年生の12月になっていました。
確か当時は、このタイミングが就職活動の解禁日だっと思います。
それまでは尖っていてエッジの効いたSFC生も、なんだか丸くなった人が増えた印象。
ここで私は、一つの重要な点に気付きます。
それはいつの間にか、
“自分の故郷である三浦で政治家になることが、手段ではなく目的になっている”
という紛れもない事実でした。
私の当初の思いにあらためて立ち返れば、政治家になることはあくまで手段の一つだったはずです。
それが勉学とフィールドワークに追われるせわしない日々の中で、無意識のうちに目的にすり替わっていたのです。
もっと言えば政治家になることが義務のようにすら感じていることに気付きました。
これはいけないと思いました。
(これでは私が当時批判していた、利権ありきの政治家たちと何ら変わらないじゃないか…)
こう悟った私は、政治家という道を、いったん頭から取っ払うことにしました。
勝手に背負っていた義務感と打算の一切を払い落として、まずは「自分の好きなこと、こだわりが持てること」で社会に貢献できる仕事をしようと決意したのです。
これからの日本には若い政治家が求められるということは確信していましたが、逆に若ければ何でもいいのかというと絶対にそうではありません。
“職業としての政治家”は、別のキャリアの中であらためてなりたいと思った時に考えればよいと思い直しました。
それが何歳の時でもいいし、仮にもしそう思えたとき、その気持ちは絶対的にピュアなものであるはずだと考えたのです。
もちろん、三浦愛はそのままでしたから、どんな形であれいつか帰ってくるだろうという淡い見通しはありました。
とにもかくにも、私は国家公務員試験の勉強をやめ、周りから少し遅れ気味に民間の新卒採用(いわゆる就活)に踏み出したのでした。
そこからの動きはかなり早かったと思います。
自分が大好きだった『食』という領域のど真ん中で働くことを決め、最終的には食品メーカーを片っ端から受けることにしました。
食へのこだわりならいくらでも語ることができましたし、大学では勉学だけでなく組織運営やボランティア活動も積極的に行っていたので、エントリーシートや面接で困ることはなにもありませんでした。
一番行きたかったキッコーマン株式会社に内定をいただき、結果として入社してから約7年間働くことになります。
営業マンとしての姿勢やビジネススキルなど、会社で学んだことはたくさんあるので、またどこかで書くことになるかもしれません。
とにかく、政治家というキャリアをいったん胸にしまい込み、私は慶應義塾大学総合政策学部、いわゆるSFCという本当にステキな大学を卒業させてもらったのでした。
ちなみに物心がついてから一度も三浦を離れたことがなかった私は、初任配属地の第一希望に大きく『北海道』と書きました。
どうせ三浦を離れるなら一番遠いところで暮らしてみたい、そして食材が一番豊かなところで働きたいと思ったからです。
(逆に東京での勤務は絶対に嫌だと言い張っていました)
その思いが通じてか、希望通り北海道に赴くことになります。
すみません。話がそれました。
大学の話シリーズはいったんこれで終えようと思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
ありがたいことに、もっと市政について論じてほしいというお声もいただいております。
まず私の生い立ちというか思いを知っていただきたく、あえて大学生活のことを先に述べさせていただきました。
なにか取り上げてほしいテーマがあれば、ご連絡いただけますと幸いです。
石﨑 遊太
【政治を志した経緯としてのまとめ追記】
こちらで記事のまとめはいったん終了となります!