あの日から12年が経って

こんばんは。
いしざき遊太です。

東日本大震災が発生してから、今日で12年が経過しましたね。

あの時皆さんは、だれと、どこで、何をして、何を考えていましたか?

私は以前の投稿でも書いた大学受験が終わり、開放感に満ち溢れていた時期の出来事でした。

※当時を振り返る話になりますので、気が進まない方がいらっしゃったらここでページを閉じてください。

あの日、横須賀で買い物をしていた私は、突然お店の電気が一斉に消えたことに驚きました。

停電かな?と思った矢先、まるで地中の巨大生物が蠢いているかのような地鳴りとともに、あの揺れを体感したのでした。

建物の外に出る前から、ただ事ではないことを直感していた記憶があります。

横須賀も三浦も、大変な状況でしたよね。

そして震源は、三陸沖―。

その事実を知った瞬間、母方の実家がある仙台の祖母や親戚の安否で胸がえぐれそうになりました。

結果的に面識のある親族は無事だったものの、それを喜ぶことが憚られる惨状を目にする日々。

ここで語るまでもないと思います。


体力だけは自信があったのですぐにでもボランティアとして現地に駆けつけたかったのですが、素人が現場に直行しても迷惑をかけるだけだと諫められ、最低限の受け入れ態勢が整うまで待つことにしました。

大学入学が1か月遅れの5月となることが決まり、震災から約3週間が経過した4月。

東北福祉大学の学生有志が企画した(と記憶しています)がれき撤去のボランティア募集を知り、寝袋と自分用の非常食を登山用のザックに詰め、すぐさま夜行バスで単身仙台に入りました。

日の出の前に、仙台駅に到着。

中心街のコンビニなどは既に復旧が進んでいましたが、当然ながら欠品も多く、水分など最低限度の買い物にとどめる必要がありました。

そこからボランティア用のシャトルバスに乗り込み、2時間ほどかけて石巻市へ向かいます。

石巻に近づくにつれ、テレビで見ていた惨状が現実のものであることを、ただただ思い知らされるのでした。

バスを降りてから撮った当時の石巻市内の状況

集まったボランティアは現地でグループに分けられ、依頼のあった民家に向かい、主にがれきの運び出しをするというのが主な仕事でした。

ボランティアは私と同じような大学生が大半かと思っていましたが、意外にも社会人(40代以上)の方が多かった記憶があります。

初日は感傷に浸っている時間もないまま、1時間に1回以上のペースで鳴り響く緊急地震速報にドキリとしながら、ひたすらがれきを運び続けました。

畳って、水を含むとめちゃくちゃ重いんですよね。

大人2人がかりでないと運べない濡れた畳

今考えるとかなりの重労働だったと思いますが、呆然と座り込んで作業を眺める家主さんの後ろ姿や、津波の高さがわかる2階部分の水跡を見ていると、疲れても手を休める気になれませんでした。

夕方手前になると、点呼を取って再びシャトルバスで仙台に戻ります。

仙台に到着したのは、既に暗くなった18時過ぎの時間。

親戚に寝床だけ提供してもらうことを事前に取り付けていたのでお邪魔して、みんなの無事を安堵しながら当時の状況を教えてもらいました。

体力が尽きかけていたので話もそこそこに、体をウェットティッシュで拭いて(シャワーを遠慮したのかガスが復旧していなかったのかは覚えていません)、レトルト食品で夕食を済ませて寝袋で早々と就寝。
翌日も早起きする必要があったのです。

※当時の食事の写真も撮っていました。

ごぼうサラダ?はどうやって手に入れたのか失念


翌日アラームで目を覚ますとすさまじい筋肉痛。

でも、6時台のシャトルバスに乗り込まなければ石巻に向かえないため、無理やり体を起こして仙台駅に向かいます。

このルーティーンを1週間ほど続け、三浦への帰路に帰路についたのでした。


私の体験談はこのくらいにしておきます。

私がこのように現地に向かえたのは有り余るほどの時間があったこと、そして親戚が被災しているという当事者性があったからであって、別に褒められるようなものではありません。

しかし現場に行ったからこそわかったこともあります。

私は大学卒業後に北海道で勤務していたため、2018年9月の胆振東部地震も経験しています。

比較的震源から離れた札幌で被災しましたが、家の中はめちゃくちゃになり、ライフラインが2日以上復旧しない状況を過ごしました。

個人として生き抜くための経験値はある程度高まった気がしていますが、守るべき家族ができた今は、どうでしょうか。

そもそも三浦市の防災は、十分といえるのでしょうか。
個人的な感覚としては、色々な意味でまだ不十分だと思っています。


市のホームページがリニューアルされたことで防災情報ポータルサイトも見やすくなりましたし、メールサービスやSNS運用も進んできています。
それぞれの地域の民生委員さんが防災について危機感を持ちながら、様々な取り組みをしてくださっていることも聞き及んでおります。
そこがわかった上で、あえて言わせていただきます。

私の掲げる重要政策には防災という2文字が入っていませんが、これは現時点において、私に防災行政を唱えられるだけの知識が不足しているためです。

また、行政が一方的に“与えるだけ”の防災施策ではなく、私が一貫して訴えている『地域コミュニティ強化』と『市民協働』の体制構築ができていなければ、本質的な防災は完成しないと考えています。

このあたりは決して疎かにしているわけではなく勉強を重ねているところですので、どうかご理解ください。

自然災害時の備えこそ、そして災害対応こそ、国ではなく地方自治体が主体とならなければならない分野です。
まさに“地域の力”が試される局面であると言ってよいでしょう。

あの日犠牲になられた多くの方々のご冥福を心から祈りながら、今日という日を契機にあらためて三浦市の防災について、そして三浦のまちづくりについて考えていきたいものです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

石﨑 遊太

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次(クリックで飛べます)